読書の時間がない日記

図書館で文芸誌を借りるのが好き。永住の地の最寄り図書館は好みの文芸誌が置いていなくて悲しい。育児と仕事で読書の時間が取れないサラリーマン。

金原ひとみ/デバッガー(新潮2019年8月号)

ルッキズム極まれり。
自身の髪(主に前髪)を気にしていた頃を思い出して、読んでいる間は脂汗のようなものが出てきて動悸がおさまらなかった。とにかく自分への執着が止まらなくてまともに社会生活を歩めなかったあの頃。自身の醜さばかりに気を取られて、現実世界で起きていることは靄がかかったような感覚で朧げだった。鏡を見る為だけに頻繁にトイレに通い、大便の個室に籠って慄えるばかり、個室の外に出ることが大変に困難であったあの頃。いやぁ完全に精神病だったよなぁ。ほんと辛かった。
ということを思い出させてくれたくらいだから、醜貌恐怖症をうまく描いている昨日だと思った。男性は禿げることで、女性は老いることでここまで悩む人は出てくると思うんだよな、ほんと架空の話ではなくて。それくらいに世間はルッキズム。(いや、世間の所為にするわけではないけれど)

宮内悠介/ローパス・フィルター(2019年1月号)

テーマは面白い。過激で扇情的なものが溢れるSNSからそれらを排除して静寂なSNSを実現したいというのは誰しもが願っていることのように思う。(と思いつつ、はてなブックマークをヘビーに利用する自分は矛盾しているけれど)

「乱暴にまとめると、昔、頭のいい人たちがこういうことを考えた。人類は啓蒙されて進歩したのに、なぜその先にナチズムといった野蛮が発生するのか。彼らの結論はこう。それは、啓蒙というものそれ自体が持っている性質なのだと」
「わからんな。啓蒙されれば文明化するんじゃないのか?」
「啓蒙は人間を支配し、人間のうちにある自然をも抑圧する。内面の自然を抑圧した先は、いわば一つの死だ。だから、啓蒙による支配は不満を生み出す」
「たとえば、ユダヤ人に対する排外主義とかか」
「そう。…

「支配的な啓蒙からウェブを解き放つために、ウェブそのものを支配しようとした。ナチズム的なる野蛮の萌芽を摘むために、精神病者の排除というナチズムそのものを用いた」

こういう思考実験?みたいなのが好き。真理に近づいた気がするから。

また、難解難読な単語が随所に散りばめられている文章もインテリ欲?を満たされて自分としては好み。(スノッブになりたい。)他の作品を手に取ってみたくなる作家さんだった。

舞城王太郎/勇気は風になる。(新潮2019年1月号)

どうした新潮2019年1月号。この号では児童虐待を扱うという方針があるのか。育児世代の自分には精神的にクルものがあるんだけど。

醜悪な人間を描ききる表現力に恍惚とする。磯部文鳥。現実では絶対にお目にかかりたくないが、小説に登場する醜悪な性格の人間はなぜか見入ってしまうところがある。変な癖(へき)かもしれない。

やたら反発だけして、言われたことや自分のやってることに対しては特に省みない人なのだ。

醜悪な性格を表現する見事なセンテンス。絶対に会いたくない。
最後の急展開は唐突感があり、自分にはよく理解できなかった。筆者が力尽きて突然に終了させたようにも思えるくらい。自分の読解力がないだけか。最後の箇所以外はほどよく楽しめた。

舞城王太郎の文章が読みやすいと感じてきている自分に驚いている。

天童荒太/迷子のままで(新潮2019年1月号)

初・天童荒太。文芸誌は新しい作家さんと触れ合う機会があって楽しい。
文章が上手いという印象はない。極端に言えば説明文の羅列のように思えてしまう。文章表現ではなく、扱うテーマと物語の内容で勝負する作家さんなのかな。4歳児を育てている自分にとっては穏やかではいれらない「児童虐待」。それだけではなく、「DV」「家庭崩壊」「離婚」「貧困」「階層の固定化」といったところか。育児世代になってから結構頭をもたげるキーワードたちだ。これらのテーマを扱っているものだから当然ながら終始心苦しく重たい感じが流れている。
最後の、主人公のやるせなさが迫る感じは、筆者の力量を見た感じがする。(テーマが私個人の事情にヒットしているということだけではなく)物語の展開方法、最後に極地に至るまでの場面の運び方が巧みだなと思った。
読んでいてとにかく苦しかった。辛かった。こういう現実があることを認めたくなかった(これは小説だけど実際にテレビでこういう事件はよく見聞きする)。とにかく子供は、子供第一優先で考えられる夫婦だけが持つべきだなと思った。と、平日の家事育児を共働きの妻にほとんど押し付けている自分が偉そうに述べる資格はないのだけれど。しかしなぁ、仕事がある中、どうしろってんだ。個人の努力だけでは如何ともし難いよ。

田中慎弥/完全犯罪の恋(群像2020年4月号)

初・田中慎弥
冒頭で本作が私小説と思われるかのような曖昧な暗示?が書かれていて、この時から私小説とでしか読めなかった。
失礼な物言いだけど、主人公たちの苦悶の念とは裏腹に、自分には終始盛り上がりに欠ける物語であった。特筆すべき心打たれる文章表現が出てくるわけでもなく、ハラハラさせるストーリー展開が拡げられるわけでもなく。
印象に残っているのはただ淡白な文章。

金原ひとみ/ストロングゼロ(新潮2019年1月号)

私には純文学というものがどういうものなのか分からないが、基本的にエンタメとして摂取している。芥川賞を獲った『コンビニ人間』もエンタメと捉えていた自分からすれば、この作品は全くもってエンタメだった。
私は、自分に自信を持っていて人生のあらゆる楽しみを満喫している人に憧れる。そういう意味で、イケメン男性と付き合えて、気軽にセフレが作れて(性に奔放で)、ふらっと一人でバーにも入れる主人公はそれだけで好ましい(羨ましい)なと思ってしまう。恋人の変調からの自身の転落っぷりは凄まじいが、それさえ人生の味でしょって思ってしまう。さすがに職場でアルコールを飲むことをよしとする様(もしくは物語の展開)にはひいてしまうけど、ここまでくると同時に笑いもこみあげた。
最後のアノ荷物を受け取って終わる、どこにも進めない絶望を感じさせた読後感は退廃的作品として素晴らしいと思った。

インターネット界隈でストロングゼロが流行ったのはいつだったか。せんべろなどと呼ばれ、退廃の象徴として世を席巻したと記憶している。金原ひとみの本作が流行らせたのだとしたら、すごいな。

最果タヒ/猫はちゃんと透き通る(文藝2020年春季号)

初の最果タヒ

なんか、わたしには見えていないものをみんな見すぎていない?――どうしてこの世界では、当たり前のように通じ合い分かり合い人々は生きているのだろう。その違和感に全身で挑む、著者飛躍作!

例に漏れず、惹句に興味を覚えて手に取った。自分という人間の“人間力”に自信がもてない自分がこの小説を読まないことは避けられない。

が、冒頭から読みにくいなぁと感じた。主語が誰なのかすら読み取れない。
著者(と書くのは正確ではなくて、登場人物たち、とする方がよいのかもしれないが)は常識の否定をしているのか?私は、自分なりの常識というものがあってそこからの比較という形の読み方をしてしまうのだけど、今回はどこに軸を置いて対比すればいいのかが分からなくて、とにかく意味不明だった。プラスなのかマイナスなのか、肯定なのか否定なのかすら分からない読み取れない。

わたしだってそうだ、人で埋まるさみしさなんてこちらは持っていないのだ。みんなが見えているふりをするっていう、そういうさみしさばかりだった。自分も仲間になりたいとか、そういうことじゃなくて。みんなが嘘をついている、それで一体感を作っている、だからさみしい、ずっとさみしい、憐れみって呼んでいいならそう呼んでしまいたい。あなたたちを見るといつもさみしくなる。でも、それはみんなも同じだと、みんなはだから手を取り合って、なんとかやっていこうとしているんだって、わかるから、わたしは憐れまないしずっと、キラキラしている天国に憧れるふりをしています。とても惨めな心地です。

これなんか最たるもので、ただ斜に構えて「皆は嘘つきでハリボテの連帯感を作っていることを非難している」ように読み取れる気もするのだけれど、それとは全く違うことを言っているようにも思える。ちなみに、上記のただ斜に構えている人間が私は大嫌いです。

唯一の収穫(発見)?悲しみと惨めさって似ている感情なのかも、とは思った。