読書の時間がない日記

図書館で文芸誌を借りるのが好き。永住の地の最寄り図書館は好みの文芸誌が置いていなくて悲しい。育児と仕事で読書の時間が取れないサラリーマン。

最果タヒ/猫はちゃんと透き通る(文藝2020年春季号)

初の最果タヒ

なんか、わたしには見えていないものをみんな見すぎていない?――どうしてこの世界では、当たり前のように通じ合い分かり合い人々は生きているのだろう。その違和感に全身で挑む、著者飛躍作!

例に漏れず、惹句に興味を覚えて手に取った。自分という人間の“人間力”に自信がもてない自分がこの小説を読まないことは避けられない。

が、冒頭から読みにくいなぁと感じた。主語が誰なのかすら読み取れない。
著者(と書くのは正確ではなくて、登場人物たち、とする方がよいのかもしれないが)は常識の否定をしているのか?私は、自分なりの常識というものがあってそこからの比較という形の読み方をしてしまうのだけど、今回はどこに軸を置いて対比すればいいのかが分からなくて、とにかく意味不明だった。プラスなのかマイナスなのか、肯定なのか否定なのかすら分からない読み取れない。

わたしだってそうだ、人で埋まるさみしさなんてこちらは持っていないのだ。みんなが見えているふりをするっていう、そういうさみしさばかりだった。自分も仲間になりたいとか、そういうことじゃなくて。みんなが嘘をついている、それで一体感を作っている、だからさみしい、ずっとさみしい、憐れみって呼んでいいならそう呼んでしまいたい。あなたたちを見るといつもさみしくなる。でも、それはみんなも同じだと、みんなはだから手を取り合って、なんとかやっていこうとしているんだって、わかるから、わたしは憐れまないしずっと、キラキラしている天国に憧れるふりをしています。とても惨めな心地です。

これなんか最たるもので、ただ斜に構えて「皆は嘘つきでハリボテの連帯感を作っていることを非難している」ように読み取れる気もするのだけれど、それとは全く違うことを言っているようにも思える。ちなみに、上記のただ斜に構えている人間が私は大嫌いです。

唯一の収穫(発見)?悲しみと惨めさって似ている感情なのかも、とは思った。