読書の時間がない日記

図書館で文芸誌を借りるのが好き。永住の地の最寄り図書館は好みの文芸誌が置いていなくて悲しい。育児と仕事で読書の時間が取れないサラリーマン。

今村夏子/こちらあみ子

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子

人が人の扱いを受けていない様はいたたまれない、受け入れられない。でも、じゃあ周りの家族に何ができた?解を持てない。

あみ子は一人だけの世界で誰からも応答がない。孤独。それでも腐らない。ていうか、端から腐るとか腐らないとかないのか。強烈な一途。その孤独たるや、胸が苦しくなる。

誰も悪くない悲劇というのはこの現実に確かにあって、その事実に心が苦しい。きれい事だけを述べて目を背ける自分。どうしたらいいの。

ピクニック

素晴らしき友情物語を読んでいたと思ったのに、急に“破綻”を見せられて、あれ?これって?と頭に疑問符を突き付けられる。だんだん「こいつら信用できないぞ」って思ってきて、でも自分の中ではそれを認められなくて、どうにかして好転してくれ!と祈りながらページをめくった。

最後の、七瀬さんの存在を確認してから引き返して皆で乾杯をしている光景は、あまりにも受け付けられなくて頭で理解ができなかった。こんな残酷な人たちっているのかよ。七瀬さんの存在自体も痛々しくて悲しいし。何これ、世界は真っ暗じゃん。て思わされる。

あれ?暇なことにイライラしている。

異動になって、仕事が大変に暇になった。激務だったこれまでより全然ウェルカム!と思っていたはずなのに、毎日なぜかイライラしている。36歳というこの年齢で急に閑職に追いやられたという不遇の念なのか、とにかく言えるのはこの状況が不満でならないという自分の意識を自覚した*1。インプットさえあれば思考の末に適切なアウトプットが行えるという自信を得た自分には、餌であるインプットを取り上げられた感が強く飢餓感がある。そして会社人として浦島太郎状態になるのではないか、置いてけぼりを食らうのではないかという恐怖の思いもある。

だからといって途端に転職を行える環境でもない、自分は1児の父だしもうすぐ2人目も生まれてくる。どうやって気を紛らわせばいいんだろうな。小説とか新書とか、読みまくるしかないと思っている。

加えて、5歳児がとにかく言うことを聞かないことにもイライラしている。ホントにここ数日で一気にストレスフルになっている。草野球に行って身体を動かしたい(叶わない)。ちくしょう。

*1:不遇なんて表記は不遜に過ぎるか

三木三奈/アキちゃん(文學界2020年5月号)

学生時代の、逃げ場のない閉塞環境下における緊張感のある人間関係、あのしんどさを思い出さされた小説。そこまで劇的な事件が起きる訳ではないのに、不思議と読み進めることを止められない。
新人賞なので選評も掲載されているのだが、これも面白かった。川上未映子の言う、トランスジェンダーをメタで語るのではなく個人と個人の物語として描ききったことが傑物であるとの評にはなるほどと膝を打った。独りよがりに読むだけでなく、他者の批評を知るのも楽しいのだなぁと知った次第。自分の読解なんてたかが知れてるので世界が拡がるのを感じる。
ところで、アキちゃんの兄への執着は何物なのか、自分には読み解けなかった。

古川真人/宿酔島日記(文學界2020年7月号)

主張とか、視座とか、好みなんだけどゆるゆる過ぎて途端に眠気に襲われる。刺激が足りないのか(刺激があったらこの作品は活きないのだろうけど)。でも、この退廃的で厭世的で批評家な雰囲気は確かに好きなんだよ。
はてなブックマークが好きな人は絶対におや?と思うだろう。
ああ、語彙が足りない。(本作を読みながら辞書を何回ひいたか。素敵だよね、自分の感情を言語化できる語彙力って)

中村文則/私の消滅(文學界2016年6月号)

人が人たる為の“脳”。これをいじれば“その人”なんて簡単に変わってしまう。何をもって“私”ができあがるのか、このテーマがとても興味深い。しかし果たしてこれは小説か?叙述の技法を見ると確かに小説然としているのかもしれないが、どちらかというとへぇーへぇーと何度もボタンを押したくたなるような自己認識に関するトリビアの連発が面白かった。
中村文則はまだ少ししか読んでいないけれど、いつも陰鬱な空気を漂わせており重苦しい作風という印象。とっつきにくくやや難解なテーマを扱うけど、それを読み切らせる筆力があるのだからすごいんだろうなと思う。(何様)

村田沙耶香/信仰(文學界2019年2月号)

やはり着眼点が面白い。

斉川さんの浄水器と、みんなが何十万もぽんぽん払うロンババロンティックと、一体何が違うんだろう。 …(略)… 浄水器は詐欺で、ロンババロンティックは「本物」。私はよくわからなくなっていた。

なるほど。価値があると“思いこむこと”、それ自体は共通しているのに一方は正常であって他方は異常だと切り捨てられる。それらはどちらも“信仰”そのものであって、この考えに至ると確かに何をもって正常・異常を判断すればよいのかが分からなくなる。自分の足場が急に崩れたような、ヒヤッと肝が冷えるようなこの感じ。面白い。

私は子供のころから、「現実」こそが自分たちを幸せにする真実の世界だ思っていた。
私は自分だけでなく、周りの人にもそれをすすめ続けた。

「え、化粧水が1万円?嘘でしょ?ほら、成分見てみなよ。私がマツキヨで買った400円のやつと、成分ほとんど同じでしょ?」
私は友達を幸せにしたくて言っているのに、皆、私の指摘に表情を曇らせた。皆、目に見えないきらきらしたものにお金を払うのが大好きだった。私がそれはぼったくりだと言い張っても、皆、絶対に、目に見えない幻想にお金を使うのをやめないのだった。

そしてこの世の核心?(信仰の玉虫色さ?)に触れた主人公もまた極端な人間であった。ここまで程度が著しいと最早コミカル。エンタメ小説だ。思えば『コンビニ人間』も主人公の言動の極端さがコミカルですらすら読まされた。村田沙耶香は本当に楽しいエンタメ作家だ。

思いのほか短編で残念だった。もっとこの世界に浸っていたかった。主人公を本当に洗脳まで導いてほしかった。洗脳されることをものすごく期待していた。

村田沙耶香/地球星人(2018年5月号)

期待が大き過ぎた。しかし、充分に及第点だった(何様)。

本作は女性の生きづらさを描いた作品なのかもしれないが、それよりも「高度な専門能力や優れた身体能力、恵まれた容姿などがない人間は価値がないという昨今の風潮を揶揄したもの」として読んだ。女性だけでなく男性も、幼少期から親や周囲に恵まれず困難を抱える人はおり、社会人になってからも“男性は稼ぐ、女性は良妻賢母、適齢期には結婚し、子供を(できれば複数人)もうける”という社会規範に呑み込まれる。昨今の政府がこの社会規範を助長する姿勢が強いし、もはや我々は周囲の人間に恵まれることがないとまともに生きていくことは無理ゲーのように思われる。それこそ“共助”で乗り切るしかないのだ。

とりあえず、親が子供を大事にしない作品を読むのは辛い。いきなりのぶっとびSF?世界にはどん引きだったけど、ここまでして自分を防衛しないと生きていけないんだからその地獄っぷりたるや凄まじい。
そして結末は自分の理解の範疇を超えている。これこそ完全にSFの境地に達しており、男女三人の妊娠が何のメタファーなのかも分からない。作品を完全に消化できず、筆者に謝りたい。